C.E.71―― 1月25日。

"血のバレンタイン"の悲劇から11ヶ月の時が流れていたこの日。
地球の衛星軌道L3に位置する宇宙コロニー・ヘリオポリスで、新たな悲劇が始まろうとしていた……








崩れた日常








「…あれ?姉さん?」
「はい、私ですが」

モルゲンレーテ社に籍を置くカトウ教授のラボへ向かっていたキラは、いるはずのない人物と遭遇していた。
ミズキ・ヤマト――若干20歳ではあるが、すでにここ、ヘリオポリスでは名医として知られるキラの姉。年齢に見合わぬ優秀さに加え、整った容姿、オッド・アイという珍しい瞳をもちながら、ナチュラルであるということでも有名だ。
医師である彼女が、企業であるモルゲンレーテにいる理由がわからない。

「なんでここに?確か、ここの要請も断ったって言ってなかった?」

ミズキは開業医である。どの医療機関も彼女を欲しているが、その全てを「組織に組み込まれると患者を選ばれてしまうので嫌です」の一言で一蹴しているのだ。
しかし、それでも機関からの要請は後を絶たない。つい先日も、モルゲンレーテから、出資している病院に所属するよう求められたらしいが、それも断ったと言っていたはず。

「ええ、断りましたよ。その代わり、ここの社員の健診を引き受けることになったんです」
「社員って……まさか全員の!?」
「もちろん」
「何さらっと言ってるのさ!?どれだけいるかわかってるの!?」
「知ってますよ。モルゲンレーテはオーブ有数の大企業です。支社といっても、何千人かはいるでしょう?」
「そうだよ!!その人たち全員を!姉さん一人で!見れるわけないだろ!?そんなの、ただの嫌がらせじゃないか!!」

あまりに平然としている姉に、キラは地団駄を踏んだ。
しかし、ミズキは悠然と微笑むだけ。

「キラ?私は何も、『今日一日でする』とは言ってませんよ?」
「……え?」
「引き受けるときに条件を出したんです。私も暇な身ではありませんから、時間の空いているときだけこちらに出向くと。期限なしで」
「――期限、なし…?」
「ええ。なので、たとえ全員の健診に一年かけても二年かけても文句は言えないんですv」

爽やかな笑顔でそう言ってのけたミズキに、キラは軽い疲労感を感じた。
そうだった。この姉は、唯々諾々と嫌がらせを受け入れるような人物じゃなかった。恐らくその条件も、かなり壮絶なやり取りの末、問答無用でのませたのだろう。
痛む頭を押さえながら、キラが一言言ってやろうと口を開いたとき――

「キラーーーーーー!俺たちを置いていくなーーー!!」
「うわっ!?」

キラの後ろの角から友人のトールとミリアリアが現れ、トールはキラを後ろから羽交い絞めにした。どうやら置いていかれたことへの報復らしい。それをミリアリアが笑って見ている。
そこで二人がミズキに気づき、トールはキラを解放した。

「お久しぶりです」
「元気そうで何よりです、ハウ。ケーニヒは……元気すぎるみたいですね」
「それだけが俺の取り得だし!」
「そんなこと自慢げに言ってどうするのよ!――すみません、ミズキさん。騒がしくて…」

親指を立てるトールを嗜めるミリアリアに、ミズキはクスクスと笑った。

「ケーニヒの良いところですよ。ところで、キラに置いていかれたとはどういうことです?」
「そーそー!聞いてくださいよ!キラ、ちょーっとからかっただけなのに、怒って先行っちゃったんですよ」
「別に怒ってないよ!トールがしつこいから先に来ただけ!」
「何をからかわれたんです?女顔のことですか?」
「姉さんっ!!!人が気にしていること言わないでよ!!」

キラとミズキは、髪と瞳の色以外はよく似ている。そのため、キラはよく女の子と間違えられるのだ。
年頃の少年としてはかなり面白くない。

「すみません。でも、それ以外思い当たらなくて」
「実はですねー、さっき――」


トールは大学のエレカポートでのことをニヤニヤ笑いながら話した。


「――だからっ!本当にそういうんじゃないんだって!そりゃ可愛いとは思うし、トールにもそう言ったことあるけど……恋愛感情はもってないよ!」
「まったまたー。違うなら、なんでさっき驚いてたんだよ」
「あれはサイと彼女がそういう関係だったことに驚いただけ!」
「…でも、よくフレイのこと見てるわよね?それって気になるからでしょ?」

ミリアリアまでそんなことを言い出し、キラは肩を落とした。
――ダメだ。彼らは何を言っても聞きゃしない。
半分諦めかけたキラに、思いがけない援護が入った。

「キラの言ってることは本当だと思いますよ」
「「「え?」」」
「アーガイル君とは同じゼミで仲が良いんでしょう?彼から一度もそういう話を聞いたことがなかったなら、普通に驚くと思いますが」

トールとミリアリアは顔を見合わせた。ミズキの言うことにも一理あると思ったのだ。
我が意を得たりとばかりに勢い良く頷いているキラの隣で、トールは腕を組んだまま首を捻った。

「む〜、そう言われるとそんな気もするけど…キラがフレイをよく見てるのは間違いないしなー。それで俺たち『キラはフレイのこと好きなんだろうな』って言ってたんだし」
「…………彼女を見てたのは、話しかけていいのかなって考えてたからだよ。ミリィやサイとはお互い友達だから、挨拶程度の話はするけど……それ以上の話はしたことないし。何度も会ってるのに、そんなのでいいのかなって」
「別に話しかけりゃいいじゃん」
「……でも、彼女、あまり好きじゃないでしょ?――コーディネイター」

二人から視線をそらすキラに、トールは「それは…」と言葉を濁す。ミリアリアも、かける言葉が見つからないようだ。困らせると思ったから今まで言わなかったのだが、やはり、困らせてしまった。
誤解されたままでもいいから言わなければよかった、と後悔し始めたとき、頭に温もりを感じた。

「キラ。貴方がコーディネイターであることは、貴方を構成する一つの要素でしかない。ハウやケーニヒが、ナチュラルであっても貴方の友人であるように」
「姉さん…」
「そのフレイ・アルスターという子も、仲が良くなれば気にしないかもしれませんよ」

「ね?」と笑いかけるミズキは、とても優しい瞳をしていた。

「…そうだぜキラ!気にしないで、話しかけてみろよ!」
「私もフォローするから」

トールとミリアリアも、ミズキの言葉に被せて言う。
彼らの優しさに、キラの心は自然と温かくなっていた。

「――うん…僕、今度会ったときは話しかけてみるよ」
「よっし!」

キラの肩に、トールの腕が回る。それを見ていたミリアリアの顔にも、笑顔が浮かんだ。





「――そういえば。貴方たち、カトウ教授のラボに来たんじゃないんですか?」
「「「あ。」」」
「…………忘れてたんですか」

今思い出しましたとばかりに顔を見合わせる三人を、ミズキは呆れたように見やる。
それに対し、キラは慌てて「ちょっとゆっくりしてただけだよ!?」と誤魔化そうとするが、彼女の態度は変わらなかった。

「ね、姉さんこそ、こんなところでゆっくりしてる場合じゃないでしょ!」
「そういや、なんでミズキさんここにいるんだ??」
「……遅いよ、トール」
「ちょっとここで仕事がありまして。
私はいいんです。健診を受ける順を決めているところだそうなので、その間社内見学を――」

「ニャー」

「ん?」
「あ、ユダ」

いつの間にかミズキの足元に擦り寄っていた黒猫。8年前にキラとキラの幼馴染みが拾ってきてから、色々な事情によりヤマト家で飼い始めた猫である。名は、これまた色々な事情によりミズキが決めた。
ユダは黒猫の性格そのままで、主人であるミズキにとても懐いている。常に寄り添い、時には彼女を敵――ミズキに言い寄ったり、傷つけようとしたりする者――から守る。そして、ミズキが大切にしている相手には心を許す傾向にあった。

そのユダが今まで見当たらなかったことに、今更気づく。

「ユダ、どこ行ってたの?」
「さぁ…普段から仕事中はフラっといなくなりますし」
「……で、今は仕事してないから戻って来た、と」
「でしょうねぇ」

事もなげに言うミズキとキラ。聞いていたトール達は、「猫にそんなことがわかるのか?」と首を傾げる。

「うん、昔からね」
「トリィは知ってますよね?あのコの生猫バージョンと思ってもらえば結構です」
「へ、へー…」
「す、すごいわね…」
「あ…言ってる側から来ましたよ」

トール達の背後を指差すミズキ。
彼らが振り返る前に、ソレはキラの肩に止まり、<トリィ?>と首を傾げて鳴いた。

「…さて。ユダもトリィも戻ってきたことですし、私たちも持ち場へ行かないと」
「あ、そうだね。姉さん、何時くらいに終わる?」
「診療所の方は終わらせてきましたから……緊急の患者が来ない限り、ここにいますよ」
「そうなの?じゃあ、姉さんが帰るときに連絡して。一緒に帰ろう」
「わかりました。それじゃ、貴方たちも頑張ってくださいね」
「「「はーい」」」

そこで四人は別れ、ミズキは医務室へ、キラ達はラボへと向かった。








「あ、キラ。やっと来たか」

キラ達が部屋に入ると、何かの作業をしていたサイが顔を上げてそう言った。言葉と違って、そこに咎めるような色はない。同じゼミ仲間のカズイもすでに来ており、これで全員が揃ったことになる。
三人はそれぞれの席へと腰を下ろした。

「ごめんごめん。そこで姉さんと会ったから、つい話し込んじゃった」
「ミズキさん…だっけ?彼女、医者だって言ってなかったか?」
「うん、そうだよ。今日はここで仕事があるんだってさ」

雑談を交わしながら、作業を進めていく。この前教授から渡されたプログラムの解析がまだ残っているのだ。
パソコンを立ち上げた直後、いきなり目の前に一枚のディスクが差し出された。

「……なに?」
「教授から預かった。追加とかって。渡せばわかるってさ」
「うぇ〜?まだ前のだって終わってないのに〜」

うんざりしたように突っ伏すキラに、皆の笑い声が届いた。





――シュン

皆で作業をしていると、部屋に一人の少年が入ってきた。帽子を目深に被っているが、金色の髪と琥珀の瞳がとても綺麗であることはわかる。
キラは彼に近寄った。

「……あの、何か?」
「あ…ドクター・カトウは?『ここに行け』と、言われたんだが」
「え?教授、今、ちょっと出ちゃってるんですけど」

キラが答えると、彼の瞳が鋭く細められた。何だか、焦っているように見える。
その様子が何故だか気にかかり、キラは窺うように付け足した。

「待ちます、か?そのうち、戻るとは思うんですけど」

そう言って部屋を見渡す。キラと目が合うと、トール達は微かに頷いた。
彼らの了承を得て、再度彼に視線を戻そうとしたそのとき――


――ドォン……!


「「「「「「っ!?」」」」」」

突然、轟音と凄まじい揺れが彼らを襲った。








……彼らの"日常"は、この日を境に終わりを告げた。











ふぅ…捏造しまくりました!(←達成感)
どうしても外せなかったのは、トール達に「キラ→フレイ」ではないことを納得させるくだりです。あとは、医者のミズキをモルゲンレーテに向かわせる理由作りに一苦労。意外と上手くいった気がします。

ユダが黒猫なのは、サイト名が「くろねこ」だからじゃありませんので(笑) ネットで調べた猫の毛色別性格を参考にした結果、黒猫になりました。黒猫なので、瞳は金色です。
「色々な事情」に関しては、いずれ番外編で書きたいと思っています。



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